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[西村幸祐コラム- 2006年ドイツW杯 : 大声で唄え君が代・・・スポーツの価値のために]
 
日本サポーターは大声で君が代を唄うことが、キックオフ直前の選手へのサポートになることを頭の片隅でいいから置いてほしい。それは、スタジアムでW杯の日本戦を観戦できる機会を得た人々にとっての特権でもある。
(略)
 昨年、テレビ朝日に出演した98年フランス大会出場の元日本代表、山口素弘(横浜FC)と城彰二(同)が、試合前の国歌斉唱では「一番気持ちが高まり、高まるとともに緊張し手が震える」と話していたし「国歌斉唱ができるのは、スタメンの11人だけなので、素直にうれしい」と述べていた。
(略)
 だが、君が代を肯定的にとらえる人ばかりではない。卒業式のシーズンになると年中行事のように、日の丸を含め君が代を敵視、蔑視する声も聞こえてくる。そういう中で最も代表的な主張は「君が代が戦争の記憶を思い起こさせる」というものだ。個人的な経験から「想起してしまう」というのであれば特に言うべき言葉はないが、それを政治的主張とするのであれば、明らかに整合性を欠いている。なぜなら、第2次大戦時、つまり戦争の時代に君が代は日本の国歌であったのは事実だが、日本国憲法の下、戦後60年以上、戦争がなかった平和な時代にも君が代は日本の国歌であり続けたのだから。

 そもそも世界の多くの国の国歌は軍歌のような歌が多い。中国の国歌「義勇軍行進曲」の歌詞の一部を紹介すると「われらの血と肉をもって われらの新しき長城を築かん 敵の砲火に立ち向かうのだ 進め 進め 進め」。これを聞いて戦争を想起しない人などいないだろう。フランスの国歌にいたってはさらに直接的であり、攻撃的だ。こういった状況を踏まえた上でなお「君が代の歌詞、メロディーから戦争を想起する」というのであれば、何ともたくましい想像力と言うほかない。あるいは、何らかの政治的意図を持った発言と言っていいだろう。

 そんな政治利用されていると言っていい「君が代」を政治的文脈から救い出せるのが、サッカーの、そして、スポーツの特権である。戦後教育と特殊なイデオロギーによって貶(おとし)められてきた「君が代」を大声で唄うことができるサポーターは、戦後というコンテクスト(状況、背景、文脈)から自由になれるのである。

ちょっと長くなってしまいましたが、とてもいいこと書いているなあと思って引用させていただきました。
世界の舞台で自国の国歌を歌うという行為は、本来はとても誇らしく幸せなこと。その精神を自然に取り戻せる機会が、こういうスポーツ大会での国歌斉唱の時なのだろうと思います。
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2006-06-13 Tue | 日記 | TrackBack:0 | Comment:0 | Top↑
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