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前回の続きです。
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次に、東中野修道先生の講演が始まりました。

東京日々新聞(現在の毎日新聞)によると、両少尉による百人斬り競争が行われたのは、無錫から南京までを日本軍が進んだ間での出来事とされています。
そこで、当時の日本軍の実際の進軍スケジュールを、地図と手記とで追いました。(ここで使用された手記は、この行軍に参加していた将兵が遺した物だそうです)それで以下のような事が分かりました。
・野田少尉は第3大隊の副官、向井少尉はその中の第3歩兵砲小隊の小隊長で、この二つのグループは、途中から別々の行程を歩いている。つまり両少尉は途中から一緒にはいなかった。別々の場所にいた二人が、一緒に何かを競争することは物理的にありえない。
・日本軍は常に中国軍の猛攻撃に遭っており、終始守勢だった。百人もの人間を日本刀で斬って楽しむ余裕など無い。
・日本兵は、帯刀こそしているが、当時の戦い方は、銃や砲弾の撃ち合いだった。刀で殺し合うのは300年前の話。刀を用いて中国人を殺傷したケースがあったとしたら、偶然中国兵と至近距離で出会った場合。その場合でも、それは虐殺ではなく戦闘行為とみなされる。

また、「百人斬りの記事を書いた浅海・鈴木記者が、両少尉と会ったという事実が間違いなく存在するのかどうか」の検証も併せてされました。(もしこの事実が証明されなければ、問題の当記事は記者の創造ということになる、という前提で)
・「会った」とされている4回の機会のうち、確実にそれが証明できるのは、1回目の「常州にて11月29日に会った」というものだけ。また、その時の状況も、日本軍は前日から敵の襲撃に遭い、負傷者を出し、夜をほとんど明かすという劣勢にあった。この状態で、捕虜を捕らえて斬る競争をするという余裕があったとは想定できない。

この二つの理論の説明で、先生の講演は終わりました。以下は先生の最後のお言葉です。(例によって記憶に頼って書いたものなので、間違っているところが多々あるかと思います。ご了承下さい)

死者を悼むのは日本の文化。
たとえば万葉集では歌が三つに分類されていたが、その分類のひとつに「挽歌(ばんか)」というものがある。これは遺体を載せた荷車を挽きながら当人を悼みながら歌う歌のこと。
また、「平家物語」、「こゝろ」、「ビルマの竪琴」などの文学も、死んだ者、滅んだ者を思い、悼む気持ちから生まれたもの。
このように、日本人は古来から死者を敬い、弔ってきたが、しかしこれがいつからかおかしくなってきた(靖国参拝問題の事?)。
日本が先の戦争をまるごと受け止めなければ、本当の戦後はやってこない。南京大虐殺・百人斬りの真偽を検証していくことは決して小さなことではない。

(私の記憶力があいまいで、ところどころ飛んでいるため、ちょっと意味不明な内容になっています。m(_ _)m)
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この後、会場の皆さんとの質疑応答などがありました。それはまた次回です。
(ああーー今回上手くまとめられたかどうか不安だ…)
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ところで、私は、「たかじんのそこまで言って委員会」の南京大虐殺を検証する回で、東中野先生が出演された際、「南京大虐殺があった事を証明できる写真は一枚も無い。しかしこの事と、『南京大虐殺があったかどうか』という問題は全く別の問題」という意味のことをおっしゃったのを聞いて、「この方は、先入観や感情などに惑わされず、本当に公平な視点で物事を判断できる、バランスの取れた人なのだな」と思いました。その反面、情緒的なものや感情的なものを一切排除して全ての物事にあたる人なのかな、とも思いました。しかし、最後のお言葉は、日本のために斃れた人々への鎮魂の思いにあふれ、昨今の日本を憂える、心打つもので、とても感動しました。

そのたかじんで南京大虐殺を扱った2005年3月6日放送分の動画は相変わらず見つけられないのですが(YouTubeにも無い…?)、テキスト起こししてあるサイトを見つけましたので、どうぞご覧下さい。
ユウコの憂国資料室
DVDで出してほしいなー。いや、出るでしょう!!!
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